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ウズベキスタン共和国と言う国
渡航前の下調べでウズベキスタン入国には入国カードの記入は必要ないと思っていた。 ところがであるタシケントに向けて韓国を出発してしばらくすると税関申告書の用紙が添乗員から配られる。日本ではもう余り見掛けなくなった更紙にウズベク語で印刷された用紙を穴が開くほどに睨み付け悪戦苦闘の末書き終えるまでに40分くらいを費やしたであろうかタシケントに着くころには深い安どのため息とともに頭の芯がずっしりと重く感じられた。 砂漠の中にあっても豊かな緑に囲まれたこの地はシルクロードの中継地として栄え、行き交うキャラバン隊に溢れるばかりの安らぎのひと時を提供し、通行税をとって栄えた国。そのため世界遺産に登録されている古代イスラム建築の殆どがキャラバンサライ関連とモスク、更に豪華絢爛の神学校、王墓となっている。 1991年のソビエト連邦崩壊で独立したが、それまでは豊か成るが故か数々の支配者に寄る帝国の設立と崩壊が続きその歴史は混沌としていてなかなか理解しがたい。もっとも、だからこそ歴史が生まれ興味ある建築物が数多く残されたのだろう。イスラム教スンニ派の国だそうだがブルカを着用した女性も居ないし、ラマダンはあってもお肉もお酒も大好き。話す言葉はウズベク語とロシア語。 最近になって都会的なお店も現れたが各地にバザールが整備されていて、市民の多くはバザールで買い物をする。 第2次世界大戦の後、シベリアに抑留された日本人捕虜の方たちの過酷な生活はよく知られているけれど、この地にも2万を超える日本人が抑留されたことは初めて知った。内陸に位置しながらもほぼ日本と同じ気候で、一般の家庭に居候して過ごした日本人も多かったと聞いた。様々な労働に従事したが中でもタシケントのナボイ劇場は50年くらい前の大地震で殆どの建物が崩壊した中に悠然と立っていた。こうした事から日本人に対して非常に好意的。観光地でも幾度となく<ヤポン(日本人)?>と声を掛けられた。 そして、この国は何処に行っても綺麗だった。観光地でもレストランでも道路でも箒を手に掃除する姿を目にした。更に、この国では物乞いにお目にかからなかった。観光地に付き物のしつこい物売りの姿も見かけなかった。 マリカは市場には時折ジプシーが現れて万引き被害が発生していると言っていたが実際に遭遇することもなかった。 世界遺産の街には荷馬車を引いてロバが通っていた。ロバのお尻には糞取りの袋は装着されていなかったにも拘らずロバの糞にお目に掛かることはなかった。街の人たちはすこぶる好意的で記念撮影にも気軽にOKを出してくれた。 だがしかし、この国の人達のトイレに対する感覚は理解できなかった。とにかく汚い。自分の評価では一流ホテルやレストランを★★★と考えると、空港トイレ、一般ホテルの客室★★、一般ホテル、人気の民族料理店トイレ★、民家食堂トイレはー★って感じだった。何しろ一応水洗でも使った紙は傍の蓋のない缶に入れる。当然悪臭ぷんぷん、ハエはぶんぶん。このハエが食事場所にまで飛んでくる。清潔になれた日本人が下痢になるはずだと思った。 帰国した翌日から始まった下痢は保健所に連絡しようかと思うくらい長く続き10日経ってやっと止まった。 私の外国旅行での楽しみの一つは値段交渉だが意外とスムースにおまけして貰えた。旅行者ずれして居ないせいでも有ろうが多少期待外れの感あり。 現在、多くの歴史的建造物はレストランや土産物屋等々として利用されており、古代の壁に民芸品や生活雑貨が妙にマッチして面白かったし、売り子の節度ある対応にすごく好感が持てた。 非常に雨の少ないこの国ではむき出しの木の建築物が何百年も自然維持できている。日干し煉瓦の家も雨で崩れることもない。土の断崖が崩れる危険性も少ないのか砂の崖の上に建てられた家も有った。 この国の滞在期間わずか3日間。超駆け足旅行だったので興味のあるものをじっくりと見るなんて事はどだい無理。あれもこれも過ぎ去ってみればシマッタの連続である。行きの飛行機で出会った同年代の女性は1か月かけてこの国をじっくりと廻ると話していた。その時は1か月もの間何するの?って思ったが正直羨ましくてたまらない。来年、今度は春にもう一度ウズベキスタンへ今度は個人旅行で行ってみたいと本気で考える今日この頃だ。 タシケンと空港到着。 スーケースはまずまずの速さで出てきてほっとするも入国審査が遅々として進まない。ガイドの説明では時間の感覚は日本の常識をはるかに超えていると聞いたが、順番を待つ間、警察あるいは空港職員か制服姿の男性が行列を見ながら大声で怒鳴っている。怒っているようにも見えなかったがにこにこ笑える状況では無かった。たかだか3~40人くらいの入国に小1時間を費やしてやっとターミナルの外に出ることができた。 空港では写真撮影禁止とのことで残念ながら記録に残せないがスーツケースを待つ間ターンテーブルを流れてくる荷物を見て目が点になってしまった。荷物のほとんどが大幅のセロハンテープでぐるぐる巻きにされて有る。一般的なハードケースでなく布製のケース故中身の保護用か、はたまたそれほど迄に治安状態が悪いのか。思わずショルダーバッグを体の前に持ち、辺りを一瞥。 空港の外ではタクシーの客引きが盛んに声をかけてくる。 空港を出る時、この国での最初のごあいさつ。係りの男性の目をしっかりと見つめて笑顔で<アッサローム>彼もまた<アッサローム・レクイエム>と笑顔で返してくれた(*^_^*)。 今日の宿は<マリカタシケントホテル>かなり年代物のホテルだ、エキゾティックな真紅のベッドカバーや天井から下がるキリムがイスラムを感じさせる。 お風呂のシャワーの出が悪かったり、ドアの鍵を開けるのにちょっとしたコツを掴むまでは開けにくかったりと多少の難はあったが思ったより清潔でまあまあのホテルだった。 ホテルでは数少ない語彙のウズベク語使いまくり怪しげな英語と両方で何とか通じるみたいだ。英語は全く通じないと思い、今回は全く英語のおさらいをして来なかったのが悔やまれる。 今夜の夕食は自分達で食べなくてはならない。関空で一応巻き寿司を買ってはいたが、ウズベキスタン郷土料理でも食べてみようとツアー仲間のMさんとKさんを誘ってホテルの地下にあるバー兼レストランへ降りてみる。 客は誰もいなくて女性が一人カウンターの中に座っていた。夜なのでほとんどの料理は出来なくて素麺入りのコンソメスープらしき物とナンと野菜サラダを注文。 スープはまあまあ、ナンは固いが噛むほどに味が出てくる感じ、問題はサラダ、トマトとほんのちょっぴりのレタスと山のように盛ってあるのは大嫌いなパクチーだった。 カウンターの女性と話したくて持参の巻き寿司を贈呈した所、箸を見たのは初めての様子で友達を呼んで来て代わる代わる寿司を摘まむ練習をして弾けている。 お腹は少し物足りなかったが心は十分満足して引き上げた。 2日目 快晴、気温21/9 早朝、タシケント国内空港からブハラに飛ぶ。 ここでちょっとしたハプニング発生。ターミナルから国内線飛行機までバスで行くのだが斜め前に座った若い女性の様子がおかしい。母親らしき女性が声をかけていたがバスが止まって小さな振動があった瞬間その女性が嘔吐したのだ。満員の車内で勢いよく飛び出した液体は周りの人たちの服を汚し、バスの床を汚した。ツアー仲間夫婦はもろにその被害をこうむり服やバッグまでべとべとに汚れてしまった。皆でティッシュを出し合い服を拭うのを手伝っていても一言もお詫びの言葉を口にしなかった。これも国民性なのか? 広大な砂漠、スカイブルーのアヤズクル湖、真っ青な空の下にキラキラと輝く雪の天山山脈(?)を見下ろしながら1時間余りでブハラ空港に到着。空港を出ると初めて見るような真っ青な青空だった。アラブ系の民族音楽が流れ、行きかう人々の民族衣装が私の胸を高鳴らせてくれる。 最初の観光地カラーンモスクに向かう途中、アラブっぽい街の様子で早くもこの国に魅了されてしまった。 舗装された広い道路の両側に並ぶ煉瓦造りの家並み、建物の綺麗さと街路樹の幼さで新しく開けた街だと思われる。バス停らしき場所には沢山の荷物を持った人たちがいる。迎えに来たらしい車は殆どが年代物の大型乗用車だった。 やがて前方に丸いドームを乗せた土色の建物が見え始めるとカラーンミナレットの高い塔の先端と青いドーム屋根が見た。バスは狭いバザールの入り口に駐車し、ここからバザールの中を歩いてホテルに向かう。 今日はチェックインの後、ほとんど徒歩での観光となる。 バザールで出会った白衣の老人。挨拶して撮影をお願いすると気軽に応じてくれて、握手して別れた。“ダッカ・ラフマット” 宿<シャフリスタン・ボヤージホテル>はブハラ歴史地区(1993年世界遺産登録)のど真ん中にあった。 部屋の窓を開けると目の前に大きなドームの土饅頭がどんと座っていたのには驚いた。部屋のシャワーとトイレの水の出はまずまずだったが、デジカメの充電器を差し込んでみると通電しない。フロントのおちゃんに言って其処の差し込みで充電をお願いする。夕食の後、いざ就寝と思うとベッドメイキングが出来ていない、しまったチェックを忘れた。だが普通ベッドメイキングなんてチェックしないよ。またまたおじちゃんを呼んで注意すると有ろうことか自分の部屋のベッドから使っていたシーツを剥がして持ってきた。おまけに寒くて眠れなかった。そんなこんなで立地条件以外最悪のホテルだった。 陶器で有名な街なので広場には陶器のモニュメント。さらには物凄い年代物のジープも発見。 カラーン・ミナレットとモスク(約900年前に建造された) 高く天に向かって聳え立つ高さ46メートルの煉瓦とタイルのモスク。 スカイブルーの丸屋根、巨大な建造物全体がブルーを基調にしたタイルで様々な模様に装飾されているモスクの入口。息をのむ美しさと言わざるを得ない。死ぬまでに絶対に訪れたいと思い続けてきた情景を目の前にして興奮状態の自分がいる。そして、この旅行中ず~とこの状態が続いたのだから恐るべしウズベキスタンである。 ツアーの参加者は世界中を制覇した旅の熟練者ばかりだったが皆必死で写真を撮っている。 自分はビデオ撮影と写真、両方可能なデジカメだったので余すところなく感動を録画できたが写真ではこの感動をすべて収めることは不可能に思われた。失敗はビデオばかり撮ったのでブログに使える写真が誠に少ない事だ。 12歳くらいの少年が“カード、カード”といって絵葉書を見せに近寄って来たがノンと言うとすっと離れていった。一瞬買おうかな~との思いがよぎったが少年はそれ以上近寄って来なかった。露店のおばさんも奨めはするがしつこくない。それに比べて、遺跡を借りて店を出している人たちはそれなりにしつこいし交渉上手だった。安くしてと言うと幾らなら買うかと聞いてくる、帰り道に寄るからと言って店を出ると店の前で待っていてマダムと話しかけてきた。また完璧な日本語で“何処から来たの、寄って行って”と声を掛けて来るので日本語が解るのかと訪ねると無言でにこにこ笑っていたりと様々だった。 丸屋根の煉瓦の遺跡に開かれている市場<タキザルガロン>はホテルのすぐ前。 此処の名産はコウノトリの形をした銀製の鋏、有名な職人のお店に立ち寄ったが見てるだけ、行く前から絶対に買って来ようと決めていた民芸品の手刺繍布<キリム>のお店でテーブルセンターをゲット、すぐ前の香辛料のお店で<クミンとアニス>を購入。民族楽器のお店で楽器を弾きながらお店番していたお兄さんにちょっとだけ弾かせてもらう。タッカ・ラフマット(^_^)/~ 買ってきたクミンは度々出番があるものの、アニスは通常お菓子に使う香辛料。国内ではなかなか手に入らないので買って来たが、いまだに出番がない。 砂の中から掘り出されたブハラ最古のモスク<マゴキ・アッタリ・モスク> 30段くらい階段を降りたところにモスクが立っている。入口の前に普通のおばちゃんが立っていて模造紙に簡単に印刷された入場券を売っている。小さな入口から中に入ると中は年代物のジュータンの展示場となっていた。しかし余りに年代物過ぎて理屈では理解できるが興味は湧かず早々に外へ。 中央アジアで最古のイスラム建築<イスマイル・サマニ廟> 中央アジアで最初の素焼き煉瓦で建てられたというこの古代王の墓は中央アジアの3大聖地だとか。 内部は色々の模様に組み合わされた煉瓦で装飾されており感動したがドーム型の天井を見上げての説明にみんなの口は必然的に半開き、時折、煉瓦の隙間を移動する鳩たちの羽ばたきで生じる誇りは差し込む光にまさにダイアモンドダストの様、これには参った。 この廟の周りを願い事をしながら3回まわると願いが叶うと聞かされ。参加者全員黙々と廟を3周して微妙な微笑み。 木造のボロハウズ・モスク サマニ廟からモスクに向かう途中、伝統工芸の彫金工房を見る。絵皿や壺に緻密に掘り込まれる模様は繊細で美しく、同じ作品を一度彫、2度彫、3度彫と彫を重ねるごとにその輝きを増し、お値段もぽんぽんと跳ね上がっていくみたいで3度彫を見ると安い物は買う気が失せた。物凄く欲しかったがこれまでにもいろいろな場所で衝動的に買って来てお蔵入りしている数々のお土産が脳裏に浮かび手を出せなかった。 このモスクはアルク城に住む歴代王専用のモスク。クルミで作られた細長い柱には彫刻が施され天井部には彩色された蜂の巣型の装飾がある。前面に作られた池と相まって往時の煌びやかさが偲ばれる。 モスクの中には私たちのツアーだけマリカがお願いして特別に健康と幸せ祈願のコーランを唱えてもらえました。それにしても王様のモスクにしては内部が意外に質素。 ウズベキスタン最初の昼食タイム 割と有名なお店らしくキリムやスザニ刺繍の布で飾られた店内、中庭の机で老人がオスロに興じていた。 レストランはきれいなお姉さんのバイオリン生演奏が付いていたがツアーのみんなは食事の品定め談義で誰も聞いていない様子だった。 沢山のお皿が出されるがその大部分が生野菜の和え物か漬物メーンはシャリクと呼ばれる香辛料漬けの肉の串焼き、油ギトギトのプロフと呼ばれる羊肉入りのピラフ、それに大きくて硬めのナンとお茶。ナンは男性が力いっぱい引き千切ってみんなに配分。特にお茶は食事の脂っこさを和らげたり、メロンやスイカの後では必ず飲む下痢防止用に欠かせない物のようでした。それにしてもスイカやメロンの後に水を飲むと下痢になり、暖かいお茶を飲む大丈夫と本気で考えているこの国の人達って? ブハラの歴代王様が住んでいたアルク城 道路側からみると巨大な砂の城郭、所々に徳利状の突出部分が有り面白い形をしている。 坂道を上って場内に入るのだが途中には格子の中に囚人の人形を置いてリアル感を出した牢獄が有ったり、土産物屋のおばちゃんの呼び声が有ったりと結構面白い。 坂を上りきると広場になっていて其処から街が一望できた。広場の壁にキリム刺繍布を沢山広げて売っていたり、セットになった観光本を売りに近づいて来る男性が居たりと多少観光地らしくあり。 ナディール・ディバンベギ・メドレセ 聳え立つ門にはイスラム教では偶像崇拝を禁じられていたはずなのに、何と鹿を掴んで飛ぶ鳳凰が描かれている。何でも最初はキャラバンサライとして建設を始めたものがいつの間にかメドレセ(神学校)なっていた建物だとか。中庭にはぐるりと木が植えられなかなか感じが良い。 この日の夕食はこのディバンベギ・メドレセの中庭に有るレストランで民族舞踊ショーを見ながら優雅に頂いた。民族楽器が奏でる旋律に合わせ華麗な民族衣装で舞うスタイル抜群の踊り子を見ているとさながらアラブの王様になった気分で楽しく過ごせた。でも~此処の食事の不味さと言ったらツアー最悪だったよ! 踊りの合間には民族衣装のファッションショーがあった。モデルも踊り子もすごい美人ばかり女性からっ見ても魅力的。衣装は変わるが音楽も同じ(?)単調なリズムと踊りに飽きて周りの土産物屋を物色する。相当古い足踏みミシンでキリム刺繍のバッグを作って売っているおばちゃんがいた。刺繍は素晴らしいが縫製の方は何ともお粗末。それでも値段交渉して15$で娘への土産用に購入。娘は喜んで毎日使って呉れている。ヨーロッパに行っていた頃、奮発して買って来た皮のバッグは一度も持っていたのを見た事がなく、二度とお土産にバッグは買うものかと思っていたが今回は気に入ってくれたようで楽しくなる。 食事前の少しの時間にバザールへ買い物に出かけ、遊び心で勝ったウズベクスリッパ。足を覆う部分に羊の毛が縫い込まれていてとても暖かい。毎日履いて2か月で分解してしまったが足元を見る度に旅を思い出させる良い買い物だった。 このお店で店番の小さな女の子が値段交渉から一切を英語で対応したのには驚いた。 現地通訳のマルカの話ではこの国の識字率は100%、貧富の差も余り無いそうで地方の町を通過中でもそれは実感できた。
by Maky63
| 2012-01-12 14:11
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